紙の歴史 扉

初めに

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紙に関する歴史上の事柄を年代順に記述している

和紙についての本になら、大抵はその歴史が書かれてある
ことに有名な産地のものですと、古い文献に登場する、
その産地の紙に関わる動静が細かくピックアップされて、紹介してある

足尾ではと云うと、前の戦時中に楮を育てて供出したというはなしがあるようだが、
紙をすいたことはないようだ
したがって、歴史と呼べるようなものはない
この「紙の歴史」に足尾が登場することもない
古老の話に聞いた楮の栽培場所(推定)、
また野生化した楮を見たというはなしについては、
「渡良瀬源流紀行」や「茶飲み話」でふれることもあろうかと思う
現在は楮を育てる試みをしても、
腹をすかせた鹿などに食べられてうまくいっていない
したがってここでは和紙の一般的なものを列記し、
足尾和紙の歴史には及んでいない


以下の文章を書くにあたっては、 「和紙史略年表」「図録 和紙の文化史年表(思文閣出版)」
「和紙-風土・歴史・技法(柳橋真、講談社)」「和紙の手帖ⅠⅡ(わがみ堂)」
などを参照したことを、お断りしておく
文献に書かれてあるものからの子引き孫引きになる

その際、書かれたものによって年代の異なる場合がある
わたしには正否を判定する力を持ち合わせないが、
稚拙な判断にてどちらかを採用するか、併記している

また、本文もそうだが、*印以下に記したコメント文は
私個人の勝手な解釈や思い入れによっているので、
誤解・偏見が多々あろうかと思う
また、重要であるにもかかわらず抜け落ちてしまったものもあるはずだ
さらに時代の分け方も不明瞭であったり、一般的なものではないこともあるだろう
元本が正確であっても、こちらの記憶違い・誤解によって
誤った記述がされている場合もあるにちがいない
気がつく限りで訂正しながら、書き進めている
読んでくださった方のご教示・ご叱責を賜れれば幸いだ



《 概略 》

(以下のものは参考用の概略であり、本文はあくまで左のメニューからとなる)


 0.日本へ

五千年ほど前にメソポタミアで文字が発明される以前は、
壁などに絵が描かれるばかりだったが、文字の登場以来、
4大文明の各地では、その土地の産物に情報としての文字が
書かれるようになった
粘土板・金属・石・甲骨・絹そして樹皮などが用いられた
耐久性はともかく、重くかさばるものが多かったようだ

この時期有名なパピルスはエジプトのナイル川沿岸に繁茂し、
文字を書く以外にも様々利用されたようだ
この茎を削いで縦横に並べ、河の水を掛けてプレスすると発酵して自己接着を
おこしてシート状になる
現在のメキシコのアマテ、ハワイのタパ、セレベスのフヤなどの原型だ

古代中国では、殷(商)の遺跡から甲骨文や金文が見つかっていることから、
その時代に文字が発明(あるいは導入)されたことと、
殷王朝の実在が証明されている
はるか後の司馬遷の「史記」における殷王朝の歴代王の記述が
ほぼ正確であったことは驚きだ

中国で発明された紙が、4世紀ごろには朝鮮につたわり、
両国を通じて写本や外交文書として日本にも伝来してきた
やがて、日本の原料や風土にあった製紙技術が開発され、寺社や貴族など、
消費者の需要に対応して、独自の発展をとげてきた


1. 日本での始まり

日本での製紙の歴史は古く、「日本書紀」の、推古天皇18(610)年3月条には、
高句麗から渡来した僧の曇徴が、絵具や紙、墨などをつくる名人であったと
記録されている
しかし、この時代にはすでに戸籍を記録するために大量の紙をつかう必要があり、
それ以前に製紙がおこなわれていた可能性が高い
当時、中国や朝鮮からつたわった紙は唐紙(からかみ)とよばれ、珍重されていた

大陸からの文化・技術は渡来人や使節交流とともに古くから導入されていた
なかでも重要なのは、縄文から弥生への転換点となった稲作(伝播経路は不明)と、
土着の地域信仰から国家信仰へと代えた仏教の伝来ということが言える
排仏神道系の物部氏を擁仏系の蘇我氏が聖徳太子とともにうち破って、
時代の表に現れた仏教はその宗教思想ばかりでなく、
建築・工芸をもあらたな時代へと導いた

紙はその思想を広く伝える情報手段として出発し、
のちには宗教的意義に荘厳さを加味するうえから、工芸としても発展した
この時代の紙は、写経用紙・戸籍用紙・宣命紙などが主となる
写経用紙は濃い紫や紺の紙に金泥銀泥で荘厳に書かれたものが目をひくが、
百万塔中の経のように生成りのもの防虫のために黄檗で染めたものも多くある
戸籍用紙はそれぞれの土地で抄造されたものに書かれたようなので、
産地別の巧劣もあるようだ

「改新の詔」は後の時代の偽作ではないかと話題のある大化改新以後、
ことに、天武・持統夫婦からは天皇家の正史づくりが行われ、
その基礎情報として各地の風土記も提出させられている
民の統治に戸籍台帳は欠かせないので、戸籍用紙も重要だった



2. 行政用の紙

日本で製造された紙で、年代が特定できる最古のものは、
正倉院に所蔵されている
美濃(現岐阜県)
筑前(現福岡県)
豊前(ぶぜん:現福岡県東部)の紙で
戸籍の記載につかわれた
これらは702(大宝2)年のものだといわれている
奈良時代の「正倉院文書」には、約20カ国の紙産地があげられ、
原料、製法、染色方法によって、230種類以上の品種が記録されている
地方で製造された上質の紙は、中央政府におさめられている

大化の改新では、計帳と戸籍を律令制の基本台帳として整備するように
詔(みことのり)が出されたといわれているが、
実際には大宝律令以降に大量の課税用の台帳が作成されたものと考えられ、
大量に紙が製造されたる


3. 布教用の紙

文献では、写経用に大量の紙が、図書寮造紙所(ずしょりょうぞうししょ)ですかれ、
710~772(和銅3~宝亀3)年におこなわれた「一切経」の写経では、
約1101万5000枚の紙がつかわれたと云われる
現存する世界最古の印刷物といわれる「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」は
770(宝亀元)年に配布されたという記録がある
これは、木で100万基の塔をつくり、その中に印刷した経典をおさめ、
10の寺に各10万基ずつ配布したものとつたえられている
法隆寺に配布されたものが約半数現存し、製作の日付や製作者の名前が
判別できるものもある
紙の製造や印刷として、この時代としては画期的な事業だった


4.原料の転換

大陸から渡来した唐紙の大半は、麻のぼろ布を主原料とする麻紙だった
しかし国産の紙のほとんどは、コウゾ紙や ガンピ(雁皮)紙などのほか、
さまざまな植物繊維を混合したものに転換した
そのため、中国や朝鮮の紙にくらべて、強靭(きょうじん)で
うつくしい和紙が生産されるようになった


5. 熟紙から生紙へ

8世紀前半になると、「流し漉き」という和紙の特徴をしめす技法が開発された
これは、コウゾの皮を木炭で煮て、いったん長繊維のパルプ状にして、
粘着性のあるガンピの繊維を混入し、繊維全体がそろって一方向に
ながれるようにすく技法で、9世紀初めにはほぼ完成された


6. ネリによる流しずき

大同年間(806~810)には、図書寮の別所として紙屋院(かみやいん)が拡充され
宮廷用の紙をつくり、全国の技術指導もした
紙屋院ですかれた優美な紙は、紙屋紙(かんやがみ)の名で貴族に愛好され、
唐紙よりも上質とされたため、逆に唐に輸出された
この紙の技法では、「ねり(紙に粘りをだす助剤)」をつかって、
飛雲(とびぐも)、内曇(うちぐもり、打ち曇とも表記)、羅文紙(らもんし)などの
装飾紙を生みだしている
当時の絵巻物や装飾経などの発達は、くりかえして巻いたり、
開いたりしても損傷しない、うすくて強い和紙によるところが大きい


7.平安のころ

聖徳太子から称徳天皇の時代は表立っては天皇親政の時代だが、
天智天皇以降、ことに持統天皇のあとは藤原氏の1人勝ちの色が濃く、
政治だけでなく文化をも貴族的な趣味に染めていく
平安時代と呼ばれるこの時代は、京に中央集権されているが、
しだいに貴族の地方の領地が荘園化され、独自の力を持ち始める

政治文化とともに紙も地方色を強め、風土にあった個性的なものが生みだされていく
しかし消費の中心はやはり京の貴族・女房・僧侶たちで、白く上品なもの、
薄くかろやかなもの、料紙のように加飾されたきらびやかなものなどが好まれた
そのため、これまでのように溜め漉きでぼってりしたものに代わり、
流し漉きされた、薄く、張りがあり、加工しやすいものへと移行していく

ネリと呼ばれる粘剤の発見にともなって行われるようになった流し漉きの技法は
日本の紙を際立たせる重要な要素となった
公文書には現在のシワ入とは異なる檀紙や椙原が登場するが、当時そのままの姿は
残らなかったようだ

平安時代後期の紙屋院では、一度使用した反故紙(ほごし)を原料とする宿紙が
中心になり、紙屋紙は粗末な日用紙として流通するようになる
一方で、紙漉きは地方で発展し、上質な紙が中央に流入するようになった
とくに東北地方の陸奥紙(みちのくがみ)はその先駆といえる
陸奥紙は貴族たちの嗜好(しこう)に合い、男性は唐風に檀紙(だんし)、
女性は真弓紙(まゆみのかみ)とよんで珍重した


8. 鎌倉のころ

前の時代に荘園の護衛として発生した侍たちが、中央集権の衰退と呼応して
力をつけ、貴族の代理監督からやがて地方豪族としての地位を確保していく
そしてついに中央に勢力を及ぼし、官位を上りつめた平氏を経て、
源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになる

源氏の政権は征夷大将軍という武家独自の地位を確保し、
京の公家とは距離を置いたところで政治を執った(実朝は例外)
源三代のあと、北条氏へと移行し、やがて足利氏の室町幕府が興るが、
この力も衰えて戦国時代へと流れていく

建築には書院造りが及し、現在の美濃の在来書院などのような良質の障子紙が
用いられるようになる
鎌倉時代の特徴として、これまでの国家護持や貴族趣味としての仏教が、
親鸞・日蓮という布教家の努力で民衆救済の思想として根を下ろし、
現在まで至るようになった
文字を持たない民衆に対しては和讃や辻説法のようなパフォーマンスが主体だが、
教行信証・佐渡御書をはじめとする教えそのものは、形あるものとして紙の上に
残された
武家政権において使用された紙はなんといっても椙原紙だ
素朴で張りの強い姿が好まれたものと思われる
鎌倉から室町時代にかけては、檀紙系のコウゾ紙が讃岐(さぬき:現香川県)、
越前(現福井県)、備中(現岡山県)などでもつくられるようになり、
武士が鎧(よろい)の引き合わせ(胴の右わきで鎧の前後をあわせる部分)にいれた
ことから、コウゾ紙が引き合わせの別名で流通した時期があった

この時代には、産地の特色が強調されて流通し、産地名をつけた銘柄紙が
多数生まれている
たとえば播磨(はりま:現兵庫県)の杉原紙などは、中央にも多く流入した


9. 室町のころ

室町時代以降は、建築様式に書院造が多くなり、
襖(ふすま)、障子などに必要な紙の需要が増大していった
また雨傘用の厚く強い紙も、美濃や土佐などを中心として全国で生産された
近世までには、紙が庶民の日用必需品となり、大和の奈良紙、吉野紙などは
ちり紙として広く利用されるようになった
戦国時代は民衆にとって長い不幸の時代だったし、当然、紙づくりにとっても
同様だったろう
働き手は戦乱にまきこまれ、土地も荒らされることが多かったようだ

中世には、製紙技術が発展し、現代まで継承される代表的な和紙は
ほぼでそろっていたと考えられる
コウゾ紙以外にも、ガンピ紙とミツマタ(三椏)紙とに二分される斐紙(ひし)があり
ガンピ紙も平安時代からある薄様(うすよう)などのほか、
鳥の子紙、間似合紙(まにあいがみ)など種類が豊富になった
戦国期にはいると、領国経営の一環として製紙を奨励する大名が多くなり、
近世に確立した紙専売の原型が形成された


10. 江戸のころ

江戸時代は表面的には長期安定政権だった
安土桃山時代には戦乱の合間を縫って商人が台頭し、政治文化に影響を及ぼした
しかし彼らは町人とは言えない
バブルを裏で操作した金融資本といったところだろうか
どこにでもいる町人が文化や経済を動かす力となるのが、
この安定した江戸時代、ことに元禄あたりからだ

歌舞伎芝居が上演され、役者や花魁(おいらんと呼ばれたのは吉原のみ
江戸の四宿は飯盛・女郎などと呼ばれる)が錦絵に刷られて、いわばブロマイド
出版もさかんになって草双紙が庶民のなぐさみとなる
これらにはもちろん紙が用いられたので、紙の生産は飛躍的に増大した
このほかにも、町人にちょんまげが広まり、これをとめる元結紙、障子紙、
傘紙など生活の中に紙は浸透していった
また、紙を使った細工物として、紙布、一閑張り(手文庫、菓子皿)、
擬革紙、紙長門(印籠、煙草入れ、弁当箱)などがある
紙が実用品としての価値を身につけたということになる
庶民も使用済みの紙をこよりに撚ったりして再利用の工夫に知恵を使ったろう

一見安定した政権でも、途中何度も経済は逼迫し、そのたびとった措置は
倹約令であったから、華美を戒められ、紙の染色も地味な色の多様化に
活路を求めたりした
「四十八茶、百鼠」は茶色と灰色のバリエーションを表しているが、
これこそ倹約令に対抗した庶民の知恵だ

各藩と紙すきとの関係は、専売制に見られるように経済のもとを押さえこまれた
状態で、けっして豊かではなかった
江戸時代になると、紙は各藩の専売品として大きな地位を占めるようになった
これは、原料のコウゾの栽培が容易で、紙の需要が大きかったからだ
とりわけ大坂市場は、江戸とならび紙の取り引きが盛んだった

この時代には、うすく強い和紙の製造もできるようになり、半紙、障子紙、
傘紙、合羽紙などを専売品として、財源とする藩もふえていった
さらに、出版が盛んになり、江戸文学や浮世絵の人気が高くなると、
紙の需要は増大した
紙市場の拡大にともなって、大名だけでなく、有力な寺社も蔵屋敷をもうけて、
紙をあつかうようになった
こうした藩や寺社があつかう紙を御蔵紙(おくらがみ)とよび、
民間の納屋物や脇物(わきもの:平紙)と区別した


11. 明治のころ

中国に発生した紙の製法は西洋へも伝えられたが、政治や交易の関係で
千年ほどもかかって徐々にすすんでいった
シルクロードからイスラム諸国を経て北アフリカを伝い、
南ヨーロッパから北上するというルートを通っていった

現在でも残っている西洋の手漉き紙は初期のものに近い溜め漉きで、
また用途も実用品よりは美術に用いられるようだ
安土桃山時代以降訪れた欧州人といえばキリスト教の布教家とオランダ商人が主だが
それらの人によって日本の紙が欧州に紹介され、一部では評判がよかったと聞く
しかし西洋では産業革命が興って、いわゆる洋紙が生みだされ、
原料の砕木パルプとともに大量生産されるようになった
印刷機も登場し、洋紙はペン書きや印刷に向く方向に発展している

日本でも明治の早い時期に洋紙が伝わり、国産のパルプ工場・製紙工場が操業を
開始していくことになる
日本の手漉き紙業界もこれに対抗して、新たな時代の需要にあった紙を生みだし
パルプなども取り入れて増産をはかった
また、機械による日本の紙の生産も始められ、
これを当時は機械生産の洋紙に対して「和紙」と呼び、
手漉きの昔からの技法のものを「日本紙」と呼んだようだ

明治の末が日本紙生産のピークとなり、以後徐々に衰退していく。
急激な増産が一面で粗製濫造になったところもあり、
自分の首を締めるような結果になった


 12.現代

太平洋戦争の後の生産システムを失っていた時代、一時的に手づくりの紙が
求められることもあったが、洋紙の巨大な製紙工場が次々に生産を開始すると、
家内工業の手漉き紙は廃業が相次いだ
その中でわずかながら手漉き紙を守りつづけた人たちも全国に数百軒ほどいて
それぞれたいへんな苦労だったという

近年は経済価値を離れたところで、日本の紙の持つ付加価値が見直されてきていて
手触り、不均一さ、素朴な手作り感などを求めるユーザーに受け入れられるように
なった
また、環境問題とも相まって、自然主体の生産サイクルとリサイクルが可能な点も
ウリのひとつになっている
ケナフは麻とおなじで草本類で、楮のように1年ごとに収穫できるため、
熱帯雨林を伐採するよりよいということで、
マクドナルドやティッシューペーパーなどにも使われだしている
イメージ戦略とはいえ、そのような見直しはよいことだ
現在は洋紙の側での採用だが、今後は手漉き和紙に採用される可能性もあるだろう
ただし、新たな設備投資がこの業界は難しいことと、
「ケナフは和紙ではない」という偏屈な動きもあるため、まだまだ先のことになる

明治維新後、外国からの洋紙の流入によって、地方の和紙製造は衰退する傾向に
なったが、急増する紙の需要に応じて、手漉き和紙の生産は一時ふえていった
しかし、生活様式の変化とともに、和紙への需要もへり、
洋紙の国内生産が本格化すると、全国の和紙生産は急速におとろえていった

昭和初期の大凶作、第2次世界大戦中の経済統制などで和紙製造は激減し、
1901(明治34)年には約7万戸、約20万人いた和紙製造従事者が、
1941(昭和16)年には1万3000戸にまで減少した

現在では、手漉き和紙は伝統工芸品として珍重され、
強靭性、耐久性、優美さは日本国内だけでなく海外からも評価され、
技術の保存もおこなわれている
手漉き和紙を地域おこしの中心にする動きもある
和紙は、伝統的な製法のほか、機械による叩解(こうかい)や抄紙を導入して、
手漉和紙の雰囲気をだしている安価なものもある
現在、和紙本来の未晒し(みさらし)の生漉き和紙は少なく、混合の
原料から製紙した書道用紙、表具用紙、手芸用のものなどが広く使われている


(2009-01-07)

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